福岡市南区ピアノ教室 講師紹介

熊本生まれ

エンターテーメント産業の経営者の父と専業主婦の母の間に生まれました。

4人姉妹の長女で当時は優等生と言われていました。 

3歳からピアノを習いピアノが大好きでした。 

ピアノを買ってほしくてピアノを習いたいと親にせがんで妹と習いに行き 

そこでのクリスマス会がとても楽しかったのを覚えています。 

 

中学生 

テニス部に入り朝から夕方までテニスに熱中していました。 

その時の友人とは今でも仲が良く福岡と神奈川で泊まり合ったりしています。 

当時、音楽委員をしていて音楽の時間は毎回伴奏をしていました。  

ピアノは続けていましたが疲れてピアノを弾きながら 

よく鍵盤の上で眠っていました。 

上位1から2番目の高校を狙っていたため勉強とピアノと部活の両立が大変でした。 

 

学生 

第一志望の公立高校に落ちたので国公立志望の特進 

クラスに入りましたが合唱コンクールでピアノ伴奏をしました。 

周りが勉強ばかりしていたのに私はピアノばかり弾いていました。 

その時に音楽の道に進みたい気持ちはありましたが 

父の反対で当時給料が良く就職率も100パーセントの 

リハビリの専門学校を目指して勉強しました。

 当時はリハビリの学校が日本に2つしかなく倍率が18倍と 狭き門だったため猛勉強しましたが ピアノのレッスンには通っていました。 

当時、唯一ピアノのレッスンが息抜きになっていました。 

その甲斐もあって合格できました

当時は3人の妹たちがいて母は専業主婦で一番家計が苦しい時でした。 

父は経営者でしたが私が幼い時に会社が倒産し大変だったのです。

2年半たち、私は学校を辞めることになりました。

学校を辞めた後、父の紹介で地方銀行に非常勤で働き その間に付き合っていた彼の勧めで3ヶ月で保育士の資格を取りました。 

また母はピアノの先生へのお月謝を用意するときに「芸は身を助けるから 絶対に将来役に立つ。」と言ってくれ 大変な時もピアノのレッスン代を準備してくれました. 

その母に今でも感謝しています。 

 

保育所勤務

22歳のときに、資格が取れて直ぐに熊本市の保育所に非常勤で働きに出ました。

23歳、初めてのピアノの生徒ができました。

幼稚園の年長さん。

恥ずかしがり屋の女の子。

本当は他のピアノの先生に習っていたのですがその先生が厳しくて先生に懐かないということでお母様が連れていらっしゃいました。

とても可愛いらしい女の子で時々私の家にピアノを弾きに来ていました。

初めての生徒さんとのレッスンは今も懐かしく心に残っています。

 

チャレンジ

24歳の時に福岡に出てヤマハの講師の資格を取ることにしました。 

福岡市の保育園で保育士の仕事をしながら1日2時間練習をして 約3年間でヤマハグレードの5級の資格を取ることが 出来ました。 

ヤマハグレードを取ろうと思った動機は 保育士の試験受験の時に試験官からピアノの先生になる事を勧められた事 が1番の原因でしたが本当にあの時に頑張って良かったです。 

社会人

保育士の仕事だけでは食べていけないので他の仕事も掛け持ちしながら 5畳の部屋に妹のグランドピアノを熊本から福岡に持って来て ピアノの下で寝るという生活を今の主人と結婚するまで続けました。 

当時、ピアノ可のマンションで中学生や保育士志望の 短大生に教えたりしていました。 

ちなみに結婚する前にグランドピアノは自分で貯めたお金で 購入しました。 

この時期クラシックバレエを踊るのに夢中になった時期があり 毎日レッスンに通っていました。 

結婚は28歳の時に知り合った現在の主人と2年の交際を得て結婚しました。 

保育士は、6年間やり遂げやめました。

彼が隣のマンションに引っ越して来たので籍を入れてから結婚式のお金を貯めました。

結婚式ではテニス部時代の友人と当時の生徒さんがグランドハイアットで 演奏してくれ芸能人の結婚式のようでした。 

 

子育て 

31歳、娘が生まれてからもピアノを教えていましたが 主人が私の実家の会社に入ることになり 

熊本に引っ越すことになりました。 

引越ししてすぐに娘が生まれ ヤマハの直営店の大谷楽器店のピアノ講師として 働き、レストランや美術館で演奏のアルバイトもしました。 

娘が2歳の時に東京に主人の転勤の話が来ました。 

息子が生まれる直前で私は切迫早産で入院もしていましたが 主人が一番身の回りの世話をしてくれていたので 主人と一緒に東京に行きました。 

その時にはすっかりピアノ指導もやめていました。 

転勤して1ヵ月もたたないうちに妊娠6カ月で また入院することになりました。 

入院して直ぐに帝王切開で息子を取り出すことになりました。 

555グラムで息子はこの世に生まれましたがNICUで 何度も生死の間をさまよいました。 

息子は退院してからも様々な手術をしましたが 私はヤマハの東京の採用試験に向け 

ピアノ練習に没頭しました。 

息子の細菌感染を防ぐために娘は保育所や幼稚園に一切通えず ピアノ練習の間にリビングに生卵やコーヒーが まき散らされている事も 度々でした。 

息子は24時間母乳を上げないと火がついたように泣くので 抱っこをしながらピアノの片手練習にはげみました。 

ピアノの採用試験は1次審査には通りましたが2次審査で 落とされました。 

 

東日本大震災

東京の赤羽店に受験しに来ていたのは大学生ばかりで 主婦の私はとても浮いていました。 

その後1週間もしないうちにまた主人の仙台転勤の話が急遽来ました。 

主人が単身赴任で仙台に行き、私たち娘と息子は2ヵ月遅れて 仙台に行きました。

年の瀬で灯油を売っている所もなく 寒くて凍えそうでした。 

でも仙台では様々な人に助けられ 5年間も九州に帰れませんでしたが 可愛い生徒が出来、楽しいピアノ教室生活を 送ることが出来ました。 

ピアノを友達のお嬢さんに教え始めたのをきっかけに 生徒が口コミで広がっていきました。 

ただ、東日本大震災の時はインフルエンザの疑いのある娘を 病院に連れていき小1の息子をマンションに置いて行っていたので かなり心配しました。 

運よく息子はマンションのお隣さんの部屋に逃げ込んでいました。 

部屋の中は被災して滅茶苦茶でしたが そのような環境でもピアノのレッスンは続けました。 

仙台では通っていたバレエレッスンの繋がりから 伴奏ピアニストをやってみたり 

ホテルのオーディションを受けて ホテルのロビーでコンサートをさせてもらったりしました。 

ギャラはありませんでしたが憧れのホテルに家族や生徒さんと無料で宿泊でき 大満足でした。

この頃から演奏をユーチューブに載せる様になりました。 

被災後、転勤で福岡に帰って来てからは 娘も息子もちょうど思春期で学校や周りになじめず 、私も慣れない中、子供会会長を引き受けてしまい、とうとう体調を崩してしまいました。

でも、

そのような中でもピアノ指導は続け、学校役員は1時期 お休みしました。 

そんな中で息子の通っている小学校のお話し会で クリスマスお話し会と称し 音楽室のグランドピアノで演奏させて頂きました。 

実は、福岡に来て直ぐから ピアノの生徒募集をしていました。 

運良く直ぐに生徒さんが一人来てくれました。 

ピアノが弾ける環境にと福岡に来て3カ月くらいで 福岡市南区に新居を構えました。 

 

40代~ 

福岡市南区南大橋に新居を構え 息子の小学校のお話し会でのピアノ演奏と 楽しい思い出が出来ましたが 自宅のピアノ教室でも ハロウィンパーティーやクリスマス会や発表会 様々なイベントや弾き合い会を楽しめました。 

娘や息子たちにとっても楽しい会となりました。 

現在、娘は東京の音大、息子も地元の音楽高校に通っています。 

発表会やクリスマス会に時々出ては演奏を披露してくれています。 

ただ、コロナの影響で娘は大学には行けなくて オンラインレッスンの度に私の伴奏で歌わなければなりません。 

息子も必ず私に公開試験伴奏を頼んで来るため ブログと家事とレッスンと伴奏練習を今は頑張っています。 

コロナ禍での7月24日のホールでの発表会でも 娘と息子とのアンサンブルを楽しみました。 

ピアノの楽しい思い出は娘が幼い頃、母に娘を預けてレストラン演奏や美術館の演奏もしており、バレンタインデイにレストランの仕事の時に主人と娘をレストランの特等席に招待してグランドピアノで演奏した事です。

また、仙台では生徒さんが テレビに学校代表でピアノ伴奏で森公美子さんと共演したりと 大活躍でした。 

福岡に戻って来て直ぐの頃 ピアニストの先生に誘われてPTNAステップでドリーの組曲フォーレを 連弾したりと常に音楽を楽しんでいます。 

また、福岡に戻ってきてから 青年実業家の結婚式での新郎から新婦へのサプライズ演奏も 

レッスンで成功させた経験があり大変感謝されました。 

ユーチューブでのホテルやPTNAでの演奏と 生徒さんのレッスンのフォローの曲 は1500本以上になりました。 

ピアノ教室ネットのブログは、10年になり 1日で1000近いアクセスの日も過去にあります。 

 

2020年で講師歴25年

のべ300人以上の生徒さんをご指導させていただきました

生徒さんはピアノステップで次々と最高の評価をいただき 保育士、教諭の資格を取った生徒さん達は皆、輝いています。

 ここまで私のつたない人生ですが 読んでいただきどうもありがとうございます。 

これから どうぞよろしくお願いいたします。 

辻田詳子。

 

資格

保育士

ヤマハの指導演奏5級

 

 

友だち追加
第一教室辻田詳子先生の娘、辻田真佑です。
この度、第二教室として歌とピアノを教えていきますので、自己紹介を載せておきますね。

母に憧れてピアノがしたいと、
3歳からピアノを始めました。

仙台に住んでいた頃に、
桐朋音大の子どものための音楽教室で、
3歳から小学校6年生までピアノと合唱を勉強しました。
この合唱で歌にも興味を持ち、いつか学びたいと思うようになりました。

仙台では被災もしましたが、その後、合唱で
テレビに出たりと楽しく音楽生活を続けました。

小学校6年生に福岡に引っ越し、
その後、中学生の時は様々なピアノの先生に指導を受け、ピアノは楽しんで学ぶことが上達への近道だと感じました。

高校進学は音楽の道に進みたいと考えており、その時に昔からやってみたいと思っていた声楽を学ぶチャンスだと思い、声楽専攻で福岡女学院高校の音楽科に進みました。

高校では専攻の声楽と副科としてピアノもしっかり学ぶことが出来ました。

そして国立音楽大学に入学し、
より本格的に声楽とピアノを学び、
この学んだことをこれから音楽を学びたいという人に活かすことができたら嬉しいと考え、
第二教室として歌とピアノを教える先生になろうと決めました。

専攻は声楽ですが
本格的に声楽を始めたのは高校からで
それまではピアノを頑張っていました。
ピティナのピアノステップにも15回以上出場し

その事で学校の校長先生に
みんなの前で2回も表彰された
事が良い思い出です。

何人かの生徒さんが
すでに来春2023年2月からの
レッスンを予約して
くれているので

可愛い生徒さんとの
レッスンを楽しみにしています。

また、大人のレッスンも
募集しています。

大好きな音楽を続けていける事をとても嬉しく思いますし、同じように音楽が好きと思ってくれる人を増やしていきたいです。